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草創期の正法寺は黒石鶴城城主越後守正端、長島長部城城主長部近江守清長をはじめ、葛西一族とその支流江刺一族、柏山一族等の手厚い保護を受け、当地方の豪族から多大の寄進を得て、江刺を中心とする岩手県南地方一帯に末寺を擁していった。
正法寺2祖月泉良印禅師の法弟は、江刺氏の祖であり、岩谷堂光明寺を開基するほどで、当時の江刺郡一帯はまさに曹洞宗王国の趣きがあった。曹洞宗奥羽大本山としての正法寺の隆盛は約265年程続いた。しかし、慶長17年(1612)徳川幕府より降された「曹洞宗法度」、同元和元年(1615)に布告された「諸宗寺院法度」により曹洞宗奥羽大本山としての寺格を失い、能登総持寺の直末筆頭寺院とされた。
当院開山の時代は、徳川幕府による全国支配の確立、伊達藩による奥羽支配勢力の伸長が図られていた時代でもあった。この時代、正法寺には伊達藩より75石の寺領が与えられ、末寺73ヵ寺を擁する奥羽一大名刹として位置付けられ、その威容は今に伝えられている。
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■ 花林院山号・寺号の由来
当院は、山号を鶯澤山と称し、寺号は花林院と称する。山号は、天正年間(1572~1591)に当地を治めていた鶯澤四郎兵衛一族の館跡、鶯澤舘に由来し、寺号は、草木花之勝観に拠るとされている。
鶯澤氏は、南北朝時代の初期、南朝後醍醐帝に仕えた九州熊本菊池肥後守武時を祖とする藤原の一族の流れに属する武将である。この一族は、後に足利氏に服し、永正元年(1504)菊池家10代目の菊池武経(武恒)の時に奥州に下向。葛西氏支配の各地に分散してその要衡を治めていた鶯澤・角掛・太田代・鴨沢・黒田介等の武将は、何れもこの菊池を祖とする。 |
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鶯澤一族時の当主鶯澤藤一郎は永禄9年(1566)三戸南部が鹿角の領土をめぐって安東秋田近季(愛季)と争った際に、江刺輝重の命により、3000の兵を率いて出陣、南部信直の窮地を救った武将であった。鶯澤氏は江刺家の有力な武将であったことが窺わえる。
江刺家最後の領主重恒は酒色に溺れ、葛西に叛き、遠野勢や気仙の浜田・伊達勢との争いを繰り返し、家臣団の離反を招いていた。天正の変を境に、江刺の有力家臣団は南部藩や伊達藩の伝を辿ってその臣となり、重恒も南部の附庸となった。鶯澤一族時の当主鶯澤四郎兵衛も江刺を去って南部藩の臣となった。その館跡に入ったのが佐藤大隅・監物太郎父子であったと伝えられている。
安永2年(1773)11月の『良民古人書出』には、「佐藤大隅は、いつどこから来たのかは分らないが、その嫡子監物太郎の代より安永2年(1773)迄9代にわたり、鶯澤・黒田助両村の肝入を160年務めている」ことが記されている。また9代目五郎吉については「肝いりを14年務め、御用を大切に、父母を神妙に取り扱い、親類など睦まじく行なっていることに対して、領主岩城氏より金2両のご褒美を頂いたことは奇特なことである。」と記されている。
ご褒美を頂いた翌安永3年(1774)、6世月潭寛光大和尚代に佐藤宗吉(五郎吉)が寄進した鏧子は、今に用いられている。 |
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■ 花林院開山大和尚の行跡
成巌良圓大和尚は、慶長17年(1612)10月4日正法寺第14世として晋山、その動向は慶長19年(1614)仙台城にて伊達政宗公に御目見、元和2年(1616)伊達藩より田を頂戴した御礼に仙台城に赴き、元和4年(1618)伊沢郡水沢城に於いて伊達政宗公に御目見と、伊達家代々の『治家記録』や『正法寺年譜住山記』にも記されており、この時代における伊達家と正法寺の緊密な関係を伺い知ることができる。
大阪夏の陣による豊臣方の滅亡によって誕生した徳川幕府は、元和元年(1615)全国支配体制の確立に向けて諸宗寺院法度を布告。これに依って、曹洞宗奥羽大本山としての正法寺の寺格は失われた。この時、正法寺14世成巌良圓大和尚は、奇しくも正法寺の降格と直に向き合うことになった。
成巌良圓大和尚は、正法寺普住以前に、大東町中川寺開山、千厩安楽寺5世・室根龍雲寺3世等を歴住、元和元年(1615)佐藤大隅・監物太郎父子の勧請に応じて、元和3年(1617)鶯澤山花林院を開山、元和9年(1623)12月6日正法寺第14世を退休して花林院に隠居、寛永元年(1624)江刺梁川菅生院を中興開山、寛永4年(1627)12月5日遷化された。花林院では、成巌良圓大和尚を偲び12月5日を開山忌と定め、毎年この日に有縁の檀信徒を集め、慇懃の開山忌法要を営んでいる。
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■ 花林院中興の歴史
寛政7年(1795)当院11世正山秀法大和尚の代より残されている過去帳には、幕末にかけて当院に帰依していた士族として、北鵜の木(きたうのき)清原氏、鶯澤佐藤氏、同佐竹氏、同鎌田氏等の名が残されている。
明治41年(1908)建立の石碑には、開基鶯澤佐藤家衰退の後は、中世清原氏を祖とする北鵜の木清原家が田畑を寄進し、中興21世中興東秀良傅大和尚を晋山させ、北鵜の木酒屋佐藤家、宮城県藩士鎌田氏は広大な山林を寄進、日坂森高屋敷及川家は境内石段数間を整備するなどして寺勢の維持を図ってきたことが記されている。
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幕末から明治初期にかけて、凶作に喘ぐ江刺地方の農民の間には、治世不安と酷税に対する不満が満ちあふれていた。農民たちの不満は明治元年(1868)12月から翌年2月にかけて爆発、一大一揆と化した江刺40ヵ村7~8千の農民は岩谷堂に集結、その窮状を「恐れながら歎願43ヵ条」として伊達藩に強訴したが、確たる沙汰もなく「御吟味すたり」の内に幕をとじた。
この時代、正法寺においても總持寺から永平寺への本寺替えを願い出る事件や、借財に関する裁判事件が発生、第21世中興東秀良傅大和尚は、仙台僧録4ヵ寺からの指名を受け事態収拾に奔走した。
慶応4年(1868)戊辰戦争の敗北により徳川幕藩体制は終焉。替わって誕生した明治新政府は、平安時代以来の神仏習合の伝統を破壊する「神仏分離令」を発布、神社から仏像・仏具の追放を命じた。明治新政府の措置は、全国的な廃仏毀釈運動へと発展、宗教界に大混乱を招いた。この時明治6年(1873)、廃寺になった真言宗羽黒山千手院の檀徒20数戸は、質素而温厚勤直と民衆に慕われていた第21世中興東秀良傅大和尚を頼り花林院に帰依した。
昭和20年(1945)太平洋戦争敗戦の動乱期、開闢以来受け継がれてきた寺田はもとより、幕末から明治にかけて菩提寺再興の礎に檀信徒により寄進された田畑の殆どが新政府によって解放され、寺勢は再び衰退の兆しをみせた。この動乱の時代を乗り切ったのが第23世中興泰岳良英大和尚であった。中興泰岳良英大和尚は戦後新体制下における新しい寺院の復興と寺檀組織の整備に尽力、160檀信徒の支援を得て堂宇再興、当山392年の法燈を未来へと繋げる基礎を築いた。
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